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照恩寺住職によるブログてらすブログ

2019/2/15

Column

法座ってよくできている。

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法座とはよくできたものである。

そんなことを最近思うようになりました。実際、法話に関しては文字はもちろんのこと、音声、映像がインターネット上において検索すれば、いくらでも聞く(読む)ことができます。ですから、仏教に関心のある方、浄土真宗に関心のある方、苦悩を抱え思い悩んでいる方なども、もしかすると今この記事に目をとめておられるかも知れません。
実は、照恩寺のブログでは法話をお取次ぎすることはありません。なぜかと思われるでしょう。浄土真宗のお寺なら一つでもUPしなさいと思っておられるかもしれません。
ですが私は、やはり法話は法座でお聴聞してこそではないかと思うからです。特に文字で読む法話は、初めて触れる方にとって、本来の半分も味わうことができないのでないかと思います。もちろん私たち僧侶は、本も読みますし音声を聞いて学んだりします。ですがお聴聞をしているという認識はあまりありません。やはりお聴聞、法話を聞くということは、何よりもお寺などの空間に、その身をおいてこそだと心の底で思っているからでしょう。

そこには五感で味わうという意味が出てくるのではないでしょうか。ご本尊さまがご安置されている空間を見て、お香の薫りを感じ、お念仏やお経を称え、肌でその場の雰囲気に触れ、隣り合う方にご挨拶し、そして僧侶がお取次ぎくださる法話を聞く。これが古来からつづく法座でお聴聞するということです。 
皆さまは旅行に行かれたりします。なぜ旅行に行かれるのかという理由のひとつは、どんなに素晴らしい景色をネット上などの写真で見ても、やはりその場に行って、その場の雰囲気を五感で味わってこそだと思っているからではないでしょうか。

「私を救う阿弥陀様のお話」。浄土真宗の法話は要約すればこの一言に尽きますが、もちろん、これでは初めて触れる方にとっては「なんのことやら」と反応するでしょう。それでは伝わらないから様々な手段を経て法座という形の重要性に至ったわけです。そこには僧侶によるお取次ぎの工夫が当然あるかもしれませんが、どんなに上手なお取次ぎをしても、それは僧侶が有難いのではなく、どこまでも仏法(私を救う阿弥陀様のみ心)が有難いのです。
落語は今も昔も落語家と高座があって「面白い」わけです。その源流と言われる法話は、意外にも僧侶が有難いのではなく、今も昔も仏法と法座があって「有難い」と思います。

伝統を重んじるということではありませんが、私は単純に古き良きものは大切にし後世へ届けたい。何でもかんでも先進国の形態を吸収しようということではなく、きちんと取捨選択をしたい。今を生きる人に、古来より続く、こんなにも素晴らしい世界があるんだということを知ってほしい。埋もれてしまう前に、ご縁に遇ってほしいと、ただただそう思うばかりであります。
情報を得る上では大変便利な時代、インターネットが全世界を駆け巡っても、できるのは、まだまだ導入部分です。照恩寺のブログも導入部分までです。「食べログ」のサイトが主流になっても、実際食べるには、その店へ赴かねばならないように、法話は法座でお聴聞に限るのです。だから現代においても、まだまだ法座ってよくできている。そんなことを改めて思ったことです。
   
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