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照恩寺住職によるブログてらすブログ

2018/11/21

Column

報恩講を終えて。

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先日は、多くの方にご準備ご協力をいただき、無事、当山報恩講を勤め終えることができました。今年も90人近くの方がお参り下されたことです。感謝の思いと同時に、「あぁ今年も終わったなぁ」と名残惜しい思いもございます。また、徳永和上さまには、今年もお忙しいところをご調整くださり当山報恩講へご出講くださりお取次ぎくださいました。大変有難いご縁でございました。

報恩講は、書いて字のごとく「御恩に報いる集まり」と書きます。御恩に報いるということは、如来様、ご開山さまの御恩に感謝申し上げるということです。ですので、浄土真宗にとっては、この1年を通して非常に大切な法要としてお勤めいたしております。

世間では、元旦に正装して初参りをするのと同様に、昔の人は裃をつけるなど一番の正装をして報恩講へお参りなさったそうです。まさに浄土真宗寺院にとっての1年は、報恩講にはじまり報恩講に終わるといえます。

真宗大谷派の偉大な僧侶の一人に暁烏 敏(あけがらす はや)師がおられます。その先生のお言葉に「1年365日、1日として御恩報謝の日で無い日はない。毎日が報恩講である。その報恩講の最も根本的なるものが親鸞聖人の御恩に対する報恩講である。聖人の報恩講を営むことによって報恩の生活が明らかになるのである。」と仰っておられます。私もそのように受け取ることであります。そして、何よりもその報恩の生活とは、やはりお念仏(南無阿弥陀仏と口に称える)であり、お聴聞(仏さまのお話を聞く)でございます。

ですが、間違ってはいけないのが、お念仏もそうですが、お聴聞して助かるのではない、救われるのではないということです。我何を為すべきかではなく、如来なにをしたもうたのか。たすけてくださる如来様をお聴聞するのです。聞かずにはおれない親様の広大なお慈悲を、ただただ聞くばかりでございます。

照恩寺は、また来年の報恩講に向けてスタートするわけでございますが、変わらず粛々と、お聴聞を重ねていく場として在り続けたいと思うことです。今年もようこそのお参りでございました。

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