2026/9/10
Column
いま、私たちに足りないのは、
「行く場所」ではなく「いてもいい場所」なのかもしれません。
家庭でもない。
職場や学校でもない。
何かを成し遂げなくてもいい。
役に立たなくてもいい。
肩書や立場を少し脇に置いて、ただ一人の人間として過ごすことのできる場所。
そのような第三の居場所を「サードプレイス」と呼びます。
照恩寺はこれから、お寺を一つのサードプレイスとしてひらき、人と人とのつながりを育む「コミュニティの再構築」に取り組んでいきたいと考えています。
私たちは、つながっているのに孤立している
現代は、いつでも誰かと連絡を取ることのできる時代です。
SNSをひらけば多くの人の生活が見え、離れた場所にいる人ともすぐにつながることができます。
しかしその一方で、自分の悩みや不安を安心して話せる相手がいない。地域に暮らしていても隣にどのような人が住んでいるのか分からない。人と関わることに疲れながら、それでも孤独を抱えている。
私たちはいま、つながるための手段を数多く持ちながら「共にいる」という実感を失いつつあるのではないでしょうか。
かつて地域には、さまざまな人が自然に顔を合わせる場所がありました。
そこでは目的がなくても立ち寄ることができ、何気ない会話が交わされ互いの存在がゆるやかに知られていました。
しかし、生活の個人化と効率化が進むなかで、そのような場所は少しずつ失われています。
だからこそ今、あらためて人が集まり言葉を交わし、時には黙って同じ時間を過ごせる場所が必要なのだと思います。
お寺は、もともと人が集う場所だった
浄土真宗のお寺は、古来より「聞法道場」と呼ばれてきました。
そこは僧侶だけのための場所でも、亡くなった方のためだけの場所でもありません。
地域の人々が集まり、仏法を聞き、ともに生きることを考える場所でした。葬儀や法要だけではなく、日々の悩みや喜びが持ち寄られ、人と人とが出遇う場所でもあったのです。
そう考えるならば、お寺がサードプレイスを目指すことは、まったく新しい試みではありません。
むしろ、お寺が本来持っていた役割を、現代の生活のなかにもう一度ひらき直すことなのだと思います。
ただし、昔の共同体をそのまま取り戻そうということではありません。
かつての地域共同体には、助け合いがある一方で閉鎖性や同調圧力もありました。私たちが目指すのは、誰もが同じ考えを持つ集団ではなく、違いを抱えたまま共にいることのできる、ゆるやかなつながりです。
参加を強制されない。
考えを押しつけられない。
近づくことも、少し離れることもできる。
それでも訪れれば誰かがいて、自分の存在が忘れられていない。
そのような関係を、照恩寺は大切にしたいと思っています。
答えを与える場所ではなく、問いを共にする場所
照恩寺では法座や聖典講座だけでなく、現代アートの展覧会、ブックシェルフ、植物を通した空間づくり、縁側で住職と語り合う「縁側deトーキング」など、さまざまな活動を行っています。
一見すると、それぞれ別の取り組みに見えるかもしれません。
しかし、その根にある願いは一つです。
お寺を人が立ち止まり、出遇い、自分自身の生き方を見つめ直す場所としてひらくことです。
アートを通して、今までとは違う見方に出遇う。
本を通して、知らなかった言葉に出遇う。
対話を通して、自分とは異なる人生に出遇う。
そして仏法を通して、自分だけでは知ることのできなかった「私」に出遇う。
お寺は、すぐに答えを与える場所ではありません。
そもそも、人生には簡単に答えの出ないことが数多くあります。
なぜ生きるのか。
なぜ人は苦しむのか。
老い、病み、別れ、死んでいく私とは何なのか。
大切なのは答えを持っているふりをすることではなく、その問いを安心して持ち寄れることではないでしょうか。
「答えはありません。でも、話しませんか。」
その呼びかけから始まるコミュニティがあってもよいのだと思います。
コミュニティは、つくるものではなく、生まれてくるもの
コミュニティの再構築といっても私たちが一方的に共同体をつくり、人をそこへ囲い込みたいわけではありません。
そもそもコミュニティは制度や名称だけで生まれるものではないからです。
何度か同じ場所で顔を合わせる。
挨拶を交わす。
誰かの話を聞く。
自分の言葉を受け止めてもらう。
来なかった人のことを、ふと思い出す。
そうした小さな関わりの積み重ねのなかから、つながりは少しずつ生まれてきます。
お寺にできるのは、そのための場所をひらき時間を重ねていくことです。
そこに集まる人を、年齢、職業、立場、信仰の有無によって分けないこと。そして、一人ひとりが抱えているものを、すぐに評価したり結論づけたりせず、まず聞くことです。
「聞く」という営みは、浄土真宗が大切にしてきた仏法聴聞の根幹にあります。
人の声を聞く。
自分の内にある声を聞く。
そして、私を照らし出す仏法の言葉を聞く。
照恩寺の山号「聞光山」には、「光を聞く」という意味があります。
見るのではなく、聞く。
自分から光をつかみに行くのではなく、すでに私を照らしている光に、その言葉を通して知らされていく。
照恩寺が目指すサードプレイスもまた、この「聞く」ということから始まります。
お寺を、もう一度、私たちの場所へ
お寺は特別な人だけの場所ではありません。
信仰に篤い、信心深い人だけが行く場所でも、何か困ったことが起きたときだけ訪れる場所でもありません。
話したい日にも。
一人でいたい日にも。
何かを知りたい日にも。
ただ少し立ち止まりたい日にも。
そこへ行けば、誰かがいる。
そこへ行けば、自分を役割や肩書だけで見ない時間がある。
そして生きることをあらためて問い直す言葉がある。
照恩寺は、そんな場所でありたいと思います。
家庭でも職場でもない。
しかし自分の人生と無関係ではない場所。
仏教、藝術、植物、そして人と人との対話を通して、お寺に新しいつながりを育てていく。
それは失われた昔に戻ることではありません。
お寺が受け継いできた「聞く」という伝統から、これからのコミュニティのかたちを創造することです。
ワレヲ照ラス。
光ヲ聞ク。
ここから、照恩寺のサードプレイスづくりを始めます。