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照恩寺住職によるブログてらすブログ

2021/6/30

Column

てらすコトバ vol.3

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先人が遺してくだされた言葉に私たちはもっと耳を傾けるべきであろう。そんな1ページです。
(てらすじゃーなるno.9より)



私は見て参りました、死は草刈り人であります。大鎌を振って背の低いクローバーばかりか、丈なす草まで刈り取るのであります。
私は見て参りました、死は庭師であります。地に屈まる菫草を摘み取るばかりか、我が物顔に生い茂る飛燕草まで根こそぎにするのであります。
私は見て参りました、死は球戯者、それも実に無作法な球戯者であります。九柱戯をするのにきちんと標柱を並べません。そうして農夫を倒すだけで足りずに、王様まで狙います。
私は見て参りました、死は雷電であります。月影に洩る藁ぶき小屋にも、夜をあざむく王侯の邸宅にも、所嫌わず落雷するのであります……
私は見て参りました、肉体を、いや肉体ではない、私はむしろ物体と申したい。いや物体でもない、私はむしろ骨と申したい。いや骨でもない、私はむしろ塵と申したい。いや塵でもない。私は申したいのです、それは無、王冠を戴いた皇帝や諸侯の無であると。
人間――この身の丈五尺の無。

アブラハム・ア・サンタ・クララ


この文章は、十七世紀後半からウィーンで活躍したカトリックの神父アブラハム・ア・サンタ・クララ(洗礼名)がヨーロッパで猛威をふるったペスト流行の惨状を見てなされた説教の一部です。これは近年、ドイツの世界的哲学者ハイデガーの講演によって紹介されました。仏教でよく言われる「無常」は、我が国では一般的には多く「無常感」として情緒的感覚的に捉えられるか、少し自覚的に受けとめられる「無常観」ぐらいであろうと思われます。「無常」ということが深く見えていないような風情です。
ところが、本家本元を遠く離れたキリスト教において、このように「無常」ということの鮮明な姿を体得した人格が存在したということは、驚くべきことと言えましょう。特に最後の文「人間――この身の丈五尺の無。」という表現は、仏教(禅)に近いものを感じさせられます。このことは、かの西谷啓治氏もその様に味わっておられます。
また、この人の他の言葉に次のようなものがあります。
「死ぬ前に死ぬ者は、死ぬ時に死なない」
「無常」ということを受け容れた者の極まった姿が表現され、ここでも仏教との親近性が思われます。
さて、今現在、世界中が新型コロナ流行の惨禍の只中にありますが、私共の生は常に死と同時進行であります。生と死は同じ重さ、同一の意義で出来上がっています。全く相反するものが一つになっているのがこの人生です。
単純に生のみをほめたたえることは大きな錯覚に他なりませんし、また死も同様です。生のみの人生は不実(実がならない)です。アブラハムによって語られた「人間――この身の丈五尺の無。」という「無」が、実は『「永遠」そのものであるという事実』を仏教は明らかにしてきたと言っても過言でありません。
「永遠」とは、古きインド語では「アミッタ」と言われました。中国語に翻訳されて「無量」(はかりしれない)となりました。音訳(音写)としては「阿弥陀」です。
すなわち「無」と見出されたこの世界全体こそが、実は「無量」の途方もないはたらきの世界なのです。ここに「無」であるまま、「永遠」の世界に私共は安住できることになるのです。(前住職)


ハイデガー…マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger 1889~ 1976)ドイツの哲学者。20世紀大陸哲学の潮流における最も重要な哲学者の一人とされる。その多岐に渡る成果は、ヨーロッパだけでなく、日本やラテンアメリカなど広範囲にわたって影響力を及ぼした。
西谷 啓治…(にしたに けいじ 1900 ~ 1990)日本の哲学者(宗教哲学)。京都学派に属する。京都大学名誉教授、文化功労者。

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《model》Ćisato Nasu
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