2026/7/1
Column
突然ですが、このページを開いた方へ一つお尋ねします。
皆さんは、自分のことを知っていますか。
「もちろん知っています。」
そう思われるでしょう。
好きなものも分かる。嫌いなものも分かる。性格も分かる。
何十年も付き合ってきた自分です。自分が一番、自分を知っている。
そう思っています。
ですが、本当にそうでしょうか。
人は、自分が正しいと思って生きています。
間違っていると思いながら生活している人はほとんどおられません。
家族と喧嘩をするときも。職場で腹が立つときも。SNSで誰かを批判するときも。
どこかで「私は正しい。」
そう思っているのでしょう。だから争いは終わらないのです。戦争も同じです。
どちらも自分が正しいと思っているから。だから人類は何千年も争い続けています。
では、問題は「悪い人」がいることでしょうか。
違います。
問題は自分が正しいと思っていることを疑えない。
そこにあります。
ここで一つ、不思議なことがあります。
私たちは他人の欠点はよく見えます。でも、自分の欠点は中々見えてきません。
他人には「あなた、それ違うよ。」と言える時がある。でも自分には言えない。なぜでしょう。
それは、自分では自分を見ることができないからです。
目は世界を見ることができます。
でも目は、自分自身を直接見ることはできません。鏡が必要です。
それと同じなのです。
自分の本当の心の内は、自分では見えません。
だから現代では、「自分探し」という言葉があるようです。
でも私は思うのです。
本当に自分は、自分で探して心の内まで辿り着けることができるのでしょうか。
答えは、いいえ。
自分を探して見つかるのなら、人間はとっくに争いをやめています。
苦しみもなくなっています。
私たちは、「自分を知っている」と思っています。
でも本当は、知らないことを知らないで知ったかぶりで生きている。
これが人間ではないでしょうか。
では、自分は永遠に分からないのでしょうか。
そうではありません。
実は、自分を知るということは、自分が頑張って明らかにすることではない。
照らされている今を聞くことなのです。
暗い部屋で懐中電灯を持って歩き回るのではない。
朝日が昇ると、部屋全体が見えてくる。
そのように向こうから届く光(例えるなら)によって初めて自分が見えてくる。
親鸞聖人は、その出来事を生涯語り続けました。
人間が真実をつかむのではない。真実が、人間に届いていた。
人間が仏を見つけるのではない。仏が、人間を見つけていた。
その私を照らし、
私を喚び続け、
私を見失わないはたらきを、
親鸞聖人は「阿弥陀仏」といただかれました。
阿弥陀仏とは、遠い世界にいる仏様の名前ではありません。
私が探し当てる存在でもありません。ましてや存在を問うものでもない。
私がまだ自分を知らないその以前から、私に喚び続けていた真実の名です。
だから仏教とは、何かを信じ込む教えではありません。
自分を良くする教えでもありません。
この私が、本当の自分に出遇う教えです。
その出遇いは、私の努力ではなく、私に届けられていた喚び声から始まります。
だからこそ、今日こうして仏法を聞くのです。
単に知識を増やすことではないのです。
すでに私に届いていた世界を聞いていくこと。
その時間が法座なのです。